現代住宅併走 36

緑を追って
天と地の家

設計/石井 修

写真/普後 均
文/藤森照信

  • 見えているガラス窓の部屋は主室として使われ、その下は土。主室の前には屋上庭園が広がり、主室の上も屋上庭園となり、斜路で上がることができる。

 もう20年以上にわたり建築緑化に関心をもち、日本と世界のあれこれの実例を訪ねたり調べたり論じたりしてきた。そして、自分でも、失敗が多いものの、試みつづけてきた。
 戦前は除いて、戦後の建築界では誰が一番早く取り組んだのか。一度だけ取り組んだ人は除いて、誰が取り組みつづけたのか。私が知るところによると、石井修にほかならない。
 石井修というと、西宮の目神山に長年にわたり自邸をはじめいくつもの住宅を手がけ、自作によってひとつの郊外住宅環境を形成したことで知られるが、その目神山住宅群のなかでも屋上庭園はつくられている。
 目神山を離れて、石井の屋上庭園のなかでどの作が早く、かつ充実しているかといえば、やはり1974年の〈天と地の家〉にちがいない。現代のそして今後の重要テーマとなる建築緑化の問題を考えるとき、42年前のこの家を忘れるわけにはいかない。
 建築家の石井智子さんを通して施主の故植田博光氏のご家族と連絡がつき、このたび堺市の泉北ニュータウンを訪れた。
 植田氏は業務用厨房器を扱う会社を大阪の天下茶屋の町屋で営んでおり、その暗さと湿度と教育環境がよくないことから脱出を企て、まず憧れの千里ニュータウンを狙ったが抽選にはずれ、次に自分と義弟のふたりでそれぞれ泉北ニュータウンに応募し、やっと当たった。当時のニュータウンはそれくらいのものだった。そして、商売を通して旧知の石井に依頼する。
 娘の大野さんは、天下茶屋の町屋で石井の持参した住宅模型を目にしたときのことを昨日のことのように記憶しておられ、油土とバルサの模型に「こんな家に住むのか、と驚いた」と言う。今でこそ屋上庭園はそこそこ理解されているが、なんせ42年も前のこと、家の上に草が植わっているだけならまだしも、土の中に半分埋まって顔だけ出しているように見えるのだから、驚いて当然だろう。

  • 屋上庭園の頂部に立つ。

  • 入口の右手には石井好みの丸い穴があく。

  • 古墳のような埋まり方。

 外観は三角定規をふたつ立てたような山形を打放しでつくっており、丹下健三の「日南市文化センター」(62)をしのばせる大地から岩が突き出すような強さは感じられるものの、屋上のただならぬ様子は外からはうかがえない。中に入り、1階の主室(茶ノ間、食堂、台所)に上がり、茶ノ間の畳に座って障子を開けると、42年前の施主ならずとも、建築緑化には目が肥えているというかスレッカラシの私でも驚く。
 尻の下の床が、大きな開口部を通って、そのまま外の芝生まで延びて広がって見えるのだ。そしてゆるやかに上がり、先には庭木が生え、まわりの家並みは隠される。屋上庭園は数あれど、屋上庭園の中に家と自分が少し沈んで位置し、しかし暗さと湿気は払われ、陽光を浴び、空が広く感じられるような屋上庭園と住まいの関係は初体験。
 芝生の呼び声に誘われて外に出て、主室の屋根の屋上庭園の傾面を上がり棟の上に立つと、周囲の光景は一気に開け、足下には芝生の斜面と周囲の家々が、遠くには泉北ニュータウンの独立住宅と集合住宅越しに堺の海が望まれる。
 地階に少々湿気がこもるものの、主室は明るく快適で緑も心地よく、戦後につくられた屋上庭園の代表作と評して構わない。
 石井修はなぜ屋上庭園に生涯かけて取り組んだのか。コルビュジエが近代建築の五原則の2番目で述べたように、“1階をピロティによって交通用に開放し、その分減った緑を屋上で補う”という考えからではないことは、地階をピロティ状にしていないことからわかるが、ではなぜなのか。
 私が注目したのは建物と地面の接点の処理だった。写真でわかるように、側溝の内側にまず自然石を乱石で積む。ここまでは普通の石垣だが、その先が普通とは異なり、石垣の上端は凸凹のままにし、じかに芝を生やし、そのまま盛り上げて、雑木を植え、盛り上がった上端でこれまたじかに打放しの壁が立ち上がる。石垣と土手、土手と建築のあいだがじかに連続し、石垣と土手の境を画すモルタル塗りとか、土手と建築のあいだを切る溝や犬走りとかそういう断切要素をなくしている。
 その結果、大地と建築のあいだが連続し、建物が大地の中から生え出たように見えてくる。

  • 1階。右手は食堂と台所。奥が茶ノ間。

  • 1階茶ノ間。右手には屋上庭園が広がる。

  • 障子を閉めると、菊竹清訓の「スカイハウス」感が生じる。

  • 施主の母のための部屋(元は客室)。

 石井が大地と建築の関係にきわめて自覚的だったことは〈天と地の家〉という命名からも、次の設計主旨からも明らかになる。
「長い人類の住生活が地表のみで行われるようになったのは、いつ頃からであろう。横穴の住居、竪穴の住居、それに地上にそびえ立つ現代の住居、そこには人類と自然との果てしない葛藤の歴史がある。そしてこの住宅が、古代の竪穴式住居を回帰点として土や緑の自然を身近において暮らせる住宅となったとき、現代人である私たちの生活にない、何ものかをもたらしてくれることができるのではなかろうか」
 縄文時代の住居形式として知られる竪穴式住居を強く意識して設計したことがわかるし、現代人の生活から失われたものを取り返そうとしたのだともわかる。
 縄文住居を念頭に置いた近代住居の第1号は、1937(昭和12)年の白井晟一の「歓帰荘」で、第2号は74(昭和49)年の石井修の〈天と地の家〉ということになる。その間、37年。石井が白井に関心を示していたなら歴史家としてはうれしいが、そういうことはなかったようだ。


  • 南北2棟の中間には小さな中庭が口をあける。

  • 地階の居間から中庭を見る。

  • 地階の子ども室。

  • 1階から地階に下りる階段。

  • 天と地の家

天と地の家
建築概要
所在地 大阪府堺市南区
主要用途 専用住宅
設計 石井修/美建・設計事務所
構造設計 松原建築研究所
施工 中野工務店
敷地面積 384.78㎡
建築面積 81.02㎡
延床面積 184.32㎡
階数 地下1階、地上1階
構造 壁式鉄筋コンクリート造
竣工 1974年
図面提供 石井智子/美建・設計事務所
Profile
  • 石井 修

    Ishii Osamu

    1922年奈良県に生まれ、吉野工業学校を出て大林組に入社し、積算をやる。徴兵でマーシャル諸島に行き、軍事用のコンクリート構造物をつくる。戦後は、それまでの経験を生かすべく石井工務店を始めるが、うまくいかず閉店。私の知る限り、よい住宅をつくろうとして工務店を開いたものの、よくすればよくするほど赤字になっての閉店は、戦前の吉田五十八と戦後の石井のふたりしかいない。自然と火(暖炉)への深い共感を示し実践した建築家で、一度だけお目にかかっている。2007年、没。

    写真提供:石井智子/美建・設計事務所

  • 藤森照信

    Fujimori Terunobu

    建築史家。建築家。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。専門は日本近現代建築史、自然建築デザイン。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラ・ハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞。

購読のご案内はこちら