Case Study #2

アーキテクツ・ホスピタリティ/2

─ 建築家の名作ホテルと旅館に学ぶ

洋の骨格に、和の意匠をちりばめる

竣工 1909

かつて明治時代に、国家の迎賓館としてつくられたホテル。各国の貴賓や、皇族が宿泊してきた。しかも、奈良という古都に立つ。そこでは、やはり日本的なものがホテルにも求められた。最初期の日本人建築家・辰野金吾は、まるで社寺のようなたたずまいのホテルをつくった。

作品 「奈良ホテル」
設計 辰野金吾

取材・文/大井隆弘
写真/川辺明伸

  • フロントデスク前(旧大広間)の吹抜けは9mほどの高さがある。
    サイドには廊下が伸びている。

  • 北東の荒池越しに見た外観。まるで旅館のように見えるたたずまい。

 「西の迎賓館」とまで呼ばれるホテルに泊まるのだから、できるだけ早く行って長い時間滞在したい。その気持ちはよくわかるが、奈良ホテルへは、できるだけゆっくり向かってほしい。もちろん歩いて。途中で出合う景色や建物の一つひとつを目に焼きつけるように、じっくりと。

道すがら出合う鹿と紅葉、朱の鳥居

 奈良ホテルは、近鉄奈良駅の800m南東に位置する。駅を出たらまずは東へ進み、奈良県庁の手前を右に曲がってまずは奈良公園に入る。しばらく石畳を歩くと、興福寺の国宝、東金堂や五重塔にたどり着く。興福寺を堪能したら、公園の南側を東西に走る三条通に出て春日大社のほうへ。途中、菩提院の塀の前で「傳説三作石子詰之旧跡」と書かれた木標に目をやる。ここには、春日神鹿を不意にあやめてしまった三作という小僧が、掟にしたがって石子詰の刑に処され、ひとり息子を失った母が悲しんで供養し紅葉を植えた、という昔話が伝わっている。これが花札にある「鹿と紅葉」のもとになった話だと知る。
 この木標を過ぎると、目の前に鮮やかな朱色をした一の鳥居が見えてくる。鳥居の左は旧帝国奈良博物館への道。鳥居の先は緑の参道が伸びていて、人と鹿が小さくなりながらずっと続いている。
 奈良ホテルへは、鳥居の前を右に曲がる。その先はゆるやかな下り坂になっていて、荒池という大きな池が現れ視界がさっと広がる。この池の先はまた上り坂になっているが、その丘の木々の上から鴟尾(しび)をのせた瓦屋根が顔を出す。奈良ホテルである。そこは、南都一と讃えられた大乗院庭園の御殿山にあたる場所。北に荒池、南に大乗院庭園を見下ろす、最高の立地である。

  • 正面外観。
    瓦葺きの屋根、懸魚、組み物など、外観にも社寺建築の意匠を採り入れている。

関西の迎賓館

 奈良ホテルの始まりは、今から110年ほど前の1906(明治39)年。日露戦争後、訪日外国人の急増が見込まれたことから、建設資金を関西鉄道、経営を都ホテルの西村仁兵衛、地所を奈良市が提供するという覚書が結ばれて計画が動き出した。その際、奈良市は東大寺参道脇の土地を提示したが、西村が難色を示して自らこの土地を購入したのだという。
 ところがその直後、鉄道各社の国有化が決定し、関西鉄道もそのひとつとなった。西村が購入した土地は国有化前に関西鉄道へ売却されたので、敷地は鉄道院の所有となって、ホテル建設も鉄道院が引き継いだ。そうした経緯があって、09年の開業時には、民間経営の外国人向けホテルから、国家を意識させる迎賓館へとその性格が変化していた。建設予算は当初想定された5万円から35万円に。鹿鳴館が18万円であったことを考えると、これは大変な金額である。当初の経営は、50以上の客室を有しながら、毎日4~5人の客を50人以上のスタッフが迎えるというもの。奈良ホテルがもつ「西の迎賓館」という別称もうなずける。

  • 大きな洋風のスケールの空間に、高欄や鳥居、吊灯籠などの和の意匠を
    2階からフロントデスクを見下ろす。
    社寺建築のような高欄が吹抜けを囲んでいる。

    「奈良ホテル」 1階平面図(竣工時)PDFファイル − 1

  • 大きな洋風のスケールの空間に、高欄や鳥居、吊灯籠などの和の意匠を
    高欄に取り付けられた擬宝珠。戦時中に金属が接収されたため、陶器でつくり直されたもの。

  • 大きな洋風のスケールの空間に、高欄や鳥居、吊灯籠などの和の意匠を
    マントルピースと鳥居が組み合わされたデザイン。

  • 大きな洋風のスケールの空間に、高欄や鳥居、吊灯籠などの和の意匠を
    近隣の春日大社にある吊灯籠をモチーフにしたシャンデリア。

  • 大きな洋風のスケールの空間に、高欄や鳥居、吊灯籠などの和の意匠を
    フロントデスク前から2階への大階段。天井は日本的な格天井。

    「奈良ホテル」 1階平面図(竣工時)PDFファイル − 1

西洋のビルディングタイプに和の意匠を

 奈良ホテルの門は、池を越えてすぐの場所にある。門の先には、湾曲したゆるい上り坂がつづき、今か今かと気持ちを高ぶらせる。50mほど進んだ先が、いよいよ奈良ホテル。堂々たるたたずまいである。柱と上げ下げ窓、白漆喰がリズミカルに連続する壁面を、竪羽目の腰壁が引き締める。鴟尾をのせ、シンメトリーを強調しつつ雁行していく5つの棟。左手の1棟には、ダイニングルーム(旧大食堂)や宴会場(旧中食堂)、雁行する右手の3棟は客室群、中央棟にはフロントのほか、宿泊者のロビーラウンジ(旧迎賓室)などが入っている。豕扠首(いのこさす)を見せる妻面は、軽快さを添えて宿泊客に重苦しさを感じさせない。手前に突き出した大きな車寄せ玄関は、左右3本ずつ柱を建て、壁を入れて長押をまわす。乳金物(ちかなもの)は、よく見ると木製。その上に皿斗、大斗、舟肘木が重なり、虹梁へつなぐ。棟先の梅鉢懸魚(うめばちげぎょ)には日が当たり、エントランスの深さを強調している。
 この奈良ホテルのたたずまいには、「旧奈良県物産陳列所」(設計:関野貞/1902)、「旧奈良県庁舎」(設計:長野宇平治/1895/現存せず)、「旧奈良県立戦捷記念図書館」(設計:橋本卯兵衛/1908/大和郡山市に移築)と、いずれも奈良公園、あるいは公園に面して建設された明治期の建物との強い連続性が感じられる。
 いずれも上げ下げ窓の真壁の意匠。実際は大壁に柱梁型を張り付けている点や鴟尾をのせ小壁に貫を見せる点は「旧奈良県庁舎」と同じ。腰に竪板をまわす所は「旧奈良県物産陳列所」に似ている。西洋風の建物がもてはやされた明治期。行きすぎた欧化主義への反動がすでにあったにせよ、庁舎や図書館といった西洋のビルディングタイプが、なぜ奈良公園では和風の意匠をまとったのか。

  • 時を重ねるなかで、さまざまな年輪が奈良ホテルに刻まれてきた
    大食堂(現ダイニングルーム「三笠」)と中食堂(現宴会場「菊の間」)の境にある、襖の上部に取り付けられている竹の節欄間。

  • 時を重ねるなかで、さまざまな年輪が奈良ホテルに刻まれてきた
    大正時代になって、暖炉の代わりに導入されたスチーム暖房。

  • 時を重ねるなかで、さまざまな年輪が奈良ホテルに刻まれてきた
    もともと白木だったが、周囲の神社に合わせて朱に塗装された高欄。

和は「本邦建築の優点」

 設計をしたのは「日本銀行本店」(1896)や「東京駅」(1914)で有名な建築家・辰野金吾。ほとんど資料が残っていないので、辰野の意図も謎のままだが、和風意匠が採用された理由を推測するには、1894年に完成した「旧帝国奈良博物館」の問題を知る必要がある。
 この博物館は、赤坂の迎賓館で知られる片山東熊(とうくま)が設計したネオ・バロック式の洋館であるが、その姿を目の当たりにした奈良の人々は、奈良公園にはふさわしくない、と批判した。また、県議会においても「建物新築に際しては、古建築との調和を保持すべし」との決議が出されるまでに至る。その直後に設計が進められたのが「旧奈良県庁舎」で、「奈良の地は我国美術の粋とも称すべき古建築の淵叢(えんそう)たり世人既に似而西洋風建築に嫌厭(けんえん)す宜しく本邦建築の優点を採るべし」との条件がつけられた。奈良は古建築の中心地なので、日本的な建築が推奨されたのだ。この出来事と旧奈良県庁舎の建設を出発点として、和風の意匠をまとった建物が連続的に建設されていったのである。
 こうした奈良の人々の決断の背景には、明治の変動のなかで仏教に圧力がかかった廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)などによって、荒れきった古都の無残な姿への苦々しい想いがあった。あるいは、堺県、大阪府への合併によって奈良県が消えたショックも大きかっただろう。念願かなって奈良県が再設置されたのは1887年のこと。県庁舎をはじめとする建物群の建設は、奈良の人々にとってプライドにかかわる大問題だったのだ。単に和風が採用されたのではない。人々の意志で景観に規制がかけられたのだ。こうした経緯を踏まえると、鴟尾や貫が東大寺大仏殿を特徴付ける要素であったり、春日大社のあちらこちらで豕扠首が見られたりすることにも、大きな意味があるように思えてくる。つまり、「本邦建築の優点」が奈良公園一帯の社寺に重ねられたのではないか。

奈良公園のブリコラージュ

 それを確かめに、ホテルへ入ろう。大きな車寄せ玄関から2畳ほどの風除室を抜けると、フロントは9mの吹抜け空間。支輪を模したカーブで縁取られた吹抜けが、天井の高さをより強調している。その目線の先には吊灯籠をモチーフとしたシャンデリアが下がる。よく見ると側面には紅葉が刻まれている。吊灯籠のシャンデリアは、大食堂や客室の一部にも。また、暖炉のマントルピースを覆う朱色の鳥居も目を引く。吊灯籠といえば春日大社である。暖炉の鳥居にも先ほど見た一の鳥居との連続性を感じる。
 フロントの先へ進むと、今度はバー入口の欄間に興福寺の五重塔と東大寺の鐘楼をモチーフにしたエッチングガラスを見つける。バーやロビーに入れば、木々の向こうに荒池が、運がよければ紅葉と鹿の組み合わせも。対岸には興福寺があり、大階段を上がれば東大寺大仏殿の鴟尾が見える。この地に伝わる物語や歴史が風景とともに展開していく。奈良公園一帯の印象的な要素がブリコラージュされているようだ。
 この空間は、誰が手がけたのか。先述のとおり、奈良ホテルの基本設計は辰野金吾が手がけたが、現場監理は当時ホテル建築の経験をもち、辰野の工部大学校(現東京大学工学部)での後輩にあたる建築家・河合浩蔵が引き継ぎ、担当したといわれている。しかし、実施設計を誰が行ったのかは今のところはっきりわかっていない。もちろん、建設主体となった鉄道院の影響は強く感じられる。たとえば、車寄せ玄関のたたずまいは、じつのところ関西鉄道とともに国有化された京都鉄道の二条駅によく似ている。
 当時は、貴賓客に応じて改修や照明の新調がされたこともあるというから、年代も設計者もそれぞれ違うのかもしれない。その詳細は、戦後の混乱のなかで多くの資料が失われたため、建築的には不明な点も多いのだという。
 ただ、それでホテルの歴史的価値が損なわれるわけではない。奈良の人々の復興への想いは、「本邦建築の優点」を奈良公園一帯に重ねさせた。奈良ホテルは、和風をまとった一連の建物からそれをしっかり引き継いで、歴史に自らを刻む。この建築はブリコラージュの手法をもって、その重みを人々に語りかける。
 だからこそ、ゆっくり歩いて向かいたい。ホテルからのメッセージがあるのだ。100年を超えてなお生きつづけるホテルの秘密が、そんなところにあるように思えた。

  • もともと共同の浴室、トイレだった離れを、客室として改修したパークサイドツインルーム。

    「奈良ホテル」 1階平面図(竣工時)PDFファイル − 3

  • 本館スタンダードツインルーム。
    共用部と同じく4mほどの高い天井。時折、奈良公園の鹿が、客室の窓の近くまで来る。

    「奈良ホテル」 1階平面図(竣工時)PDFファイル − 2

  • 客室前の廊下。

  • 本館スタンダードツインルームの浴室。
    廊下や客室と同じく天井が高くなっている。

  • パークサイドツインルームの浴室。
    水まわりも改修されている。

  • 大食堂(現ダイニングルーム「三笠」)。
    二重の長押と格天井、シャンデリアなどの意匠が組み合わされている。外周部には緑に面した席。

    「奈良ホテル」 1階平面図(竣工時)PDFファイル − 4

  • フロントデスクの脇にある迎賓室(現ロビーラウンジ「桜の間」)。

    「奈良ホテル」 1階平面図(竣工時)PDFファイル − 5

  • 皇室や国賓の宿泊所として供されるインペリアルスイート。
    1990年に改修された(提供/奈良ホテル)。

    「奈良ホテル」 2階平面図(竣工時)PDFファイル − 6

  • 大食堂(現ダイニングルーム「三笠」)から奈良の風景を見渡せる。
    遠くに興福寺五重塔が見える。

    「奈良ホテル」 1階平面図(竣工時)PDFファイル − 4

「奈良ホテル」
  • 建築概要
    所在地 奈良県奈良市高畑町
    主要用途 宿泊施設
    建築主 鉄道院
    設計 辰野金吾+片岡安/辰野・片岡建築事務所
    河合浩蔵(現場監理)
    施工 直営
    敷地面積 21,618㎡
    建築面積 3,523㎡(新館含む)
    延床面積 12,532㎡(新館含む)
    階数 地上2階(本館)
    構造 木造(本館)
    竣工 1909年

Profile
  • 辰野金吾

    Tatsuno Kingo

    たつの・きんご/1854年佐賀県(唐津城下裏坊主町)生まれ。73年工部省工学寮(後の工部大学校)の第1回生として入学。77年に着任したジョサイア・コンドルに学ぶ。79年工部大学校造家学科(現東京大学工学部建築学科)を卒業。84年工部大学校教授。1903年東京に辰野・葛西建築事務所、05年大阪に辰野・片岡建築事務所を開設。19年逝去。
    おもな作品=「日本銀行本店」(1896)、「旧松本家住宅」(1911)、「東京駅」(14)。

    写真出典/国立国会図書館ウェブサイト「近代日本人の肖像」

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