現代住宅併走 38

大ガラスのある白い箱
三岸アトリエ

設計/山脇 巖

写真/普後 均
文/藤森照信

  • 2階からアトリエを見る。アトリエ室内の主役は鉄製まわり階段。 

 このシリーズで〈三岸アトリエ〉を取り上げていないことに気付き、何年かぶりで出かけた。
 初めて訪れたときがいつなのかうろ覚えだが、まだ〈三岸アトリエ〉の存在が建築界では知られていない頃で、三岸好太郎、節子夫妻の長女の向坂陽子さんが迎えてくれた。今回は向坂陽子さんと娘の山本愛子さん。
 よくぞ今日まで残ってきてくれた。本来なら鉄筋コンクリートでつくるべきバウハウスのデザインを安価につくるという無理難題を敢行し、当然のように完成後、日本の夏暑く冬寒く、夏も冬も雨の多い気候にさらされて、壁も屋根も仕上げもディテールも満身創痍になりながら、凛として立っている。表現におけるその強い持久力を可能にしたのは、外観においては大ガラス、室内においては鉄のまわり階段のふたつ。
 遠目に眺めても中に入って確かめても、このふたつしか印象に残らない。“このふたつさえあれば、そのほかはどうでもいい”、そんな突き詰めたというか切り詰めた表現意欲がヒシヒシと伝わり、見る者の心を打つ。
 まず、この小さなアトリエ建築の日本近代建築史上の位置について述べよう。
 今日の世界の建築表現のベースを決めたのは1926年竣工の白い四角な箱に大ガラスをはめた「バウハウス校舎」で、日本の若手建築家はすぐ反応し、何人もが入学したり見学に訪れたりしている。
 バウハウスを源とするモダニズムの流れは、流れはじめ6年後、ル・コルビュジエが32年の「スイス学生会館」において袖を分かち、白い箱と大ガラスの表現に代えて、粗い打放し、自然石、曲面、曲線によるダイナミックな造形美を打ち出す。モダニズムは、こと日本への影響に限ると、バウハウス派とコルビュジエ派に分かれて、以後、流れてゆく。前者を白派、後者を赤派のモダニズムと私は呼んでいる。
 赤白の二派に分かれて流れはじめた日本の初期モダニズムで注意してほしいのは木造の一件で、鉄骨造と鉄筋コンクリート造という近代的材料によって生み出されたモダニズム表現を、日本の建築家は木造に置き換えるという世界にもまれな試みに取りかかり、これを今では“木造モダニズム”と呼ぶ。

  • 道路側からの全景。手前の出っ張りが玄関。

  • アトリエの北側には採光窓。

  • 九間(ここのま/三間四方の平面)の白いアトリエは、戦後の磯崎新の「ホワイトハウス」に通ずる。

 実作についていうなら、白派木造モダニズムが日本で初めて試みられたのは土浦亀城設計の「初代・土浦邸」で31年のこと。次は堀口捨己による33年の「岡田邸書斎」、そして34年の〈三岸アトリエ〉となる。
 つまり、白派の木造モダニズムとしては「初代・土浦邸」、「岡田邸書斎」と並んで最初期の実験作にして、かつ「初代・土浦邸」も「岡田邸書斎」もなき今、唯一の実例にちがいない。
〈三岸アトリエ〉以後の白派木造を歴史に確かめると「二代・土浦邸」(35)、「山田邸」(35/山口文象設計)などと続くが、後者は取り壊され今はない。
 バウハウス直系といってかまわない白派の木造モダニズム作品としては、現在、34年の〈三岸アトリエ〉と35年の二代・土浦邸の2棟しか存在しない。
 2棟を比べると興味深い違いがある。
 本来なら鉄筋コンクリートでつくるべき白い箱をなぜ木造に置き換えたかについて生前、土浦先生にたずねると、「普通の人の住宅を改良するには、日本の場合、木造でなければならない」と答えられた。

  • アングル材をカクカクと曲げてつくった苦心のまわり階段を見よ。ここまでしてでもやりたかった。

  • アングル材をカクカクと曲げてつくった苦心のまわり階段を見よ。ここまでしてでもやりたかった。

  • 1階の応接間。正面の黒い電熱暖炉は昔のまま。

  • 右手のアトリエと左手の道路脇の塀のあいだの狭い通路を経て、玄関へ。

 経済的にそう恵まれない市民のため、モダニズムで住宅を向上させようという社会改良的動きは、当時のヨーロッパのモダニストのあいだでは一致しており、27年にはワイゼンホーフ住宅展が開かれ、グロピウス、ミース、コルビュジエはじめ、20世紀建築をリードするメンバーが鉄筋コンクリート造の白い箱に大ガラスのデザインで参加している。当時、こうした改良住宅をまとめて建てる例をジードルングと呼んでいたが、土浦は、仲間の斎藤寅郎(建築家/朝日新聞記者)と組んで、二代自邸を含め4軒の木造の白派バウハウス住宅を白金の長者丸に集中して建て、ミニ・ジードルング(ただし独立住宅)を実現している。
 一方、〈三岸アトリエ〉はどうか。なぜ白い箱に大ガラスを木造でやったのか。
 三岸好太郎と山脇巖は山脇が上野の美術学校(現東京藝術大学)時代に見知っていたが、具体的関係が始まったのは、山脇がバウハウスに留学して帰国した翌年の33年、朝日新聞が主催した「欧州新建築展」(出展者/山脇巖、今井兼次、蔵田周忠、吉田鐵郎、山田守)に山脇がバウハウス建築を出したのを三岸が見に来て、声をかけたのがキッカケだった。なお、このヨーロッパのモダンな動きを伝える展覧会を企画し実行したのは斎藤寅郎である。土浦が招かれなかったのは、土浦の留学先がアメリカで欧州建築の新しい動向にはふさわしくなかったからか。

  • 2階の“書庫兼書斎”が好太郎亡き後に残された三岸節子一家6人の住まいとなる。

  • 玄関に残るコートと帽子掛け。

 モダニズムの前衛画家としてヨーロッパの先端デザインの動きを熟知していた三岸は、夢を託すべき建築家を探して展覧会に出かけ、旧知の山脇に出会い、ここからすべてがスタートする。そして設計を終始リードしたのは画家のほうだった。
 経済的にはまるで恵まれない前衛画家が白いバウハウス建築のどこに魅せられていたんだろう。この謎を解くカギは建築そのもののなかに隠されている。

 今回久しぶりに3回目の探訪をして、ふたつの異様に気付いた。ひとつは、アトリエに不可欠の大ガラス窓の付く方位で、本来なら北側に開けるべきをなんと南側に大きく開口している。そう広くはない建築の全景をとらえることのできる道は南側を走っており、画室としての実用性より建築の表現を優先した結果だった。
 もうひとつは、道から玄関へのアプローチが異様で、道から直接入ればいいものを、手前で敷地に入り、塀とアトリエのあいだの隙間を歩いてから玄関に入る。
 なぜこんな面倒な動線処理をしたのか。今は失われたこの特殊な動線を昔の図面と写真で追体験して、わかった。来客を大ガラスに直面させるためだった。加えてもうひとつ、大ガラスの向こうに姿を見せるまわり階段にも直面してほしい。
 当時、まだ日本には2階分の高さの連続大ガラスも、その大ガラスがそのまま建物の角をまわる表現も、住宅は当然あらゆる種類のモダニズム建築で実現していなかった。
 画家が求め、建築家が実現したのは、大ガラスであり、大ガラスがもたらす大量の光だった。そして充満する光のなかにふさわしい建築的造りは鉄のまわり階段だけ。そのほかはどうでもよかったし、今、訪れてもそのように見える。初志貫徹。なお、三岸好太郎は、工事中、絵を売って建設資金を得るべく名古屋方面に出かけたまま、病没し、竣工を見ることはなかった。竣工後はアトリエを見下ろす狭い2階に、三岸節子は長女の陽子など家族6人で住みながら、絵を描きつづけていた。

三岸アトリエ
建築概要(竣工時)
所在地 東京都中野区
主要用途 アトリエ
設計 山脇 巖
施工 永田建築事務所
延床面積 38.414坪(アトリエおよび2階書斎兼書庫:22坪、テラス兼泉水:9.289坪、住居部分:7.125坪)
階数 2階
構造 木骨造
竣工 1934年
図面転載 『新建築』1935年11月号
URL www.leia.biz/
Profile
  • 山脇 巖

    Yamawaki Iwao

    1898〜1987年。長崎県生まれ。26年、東京美術学校(現東京藝術大学)を卒業し、30年、バウハウスに妻の道子とともに留学。32年、ナチスによるバウハウス閉館により帰国後、第1作として〈三岸アトリエ〉をつくる。戦前は、建築設計より万国博覧会(ニューヨーク)での写真モンタージュを駆使しての展示設計や和風建築で活躍している。駒場の立派な自邸にはまわり階段があり、戦後、来日したヴァルター・グロピウスを迎えている。おもな作品に「旧俳優座劇場」(54)、「桐朋学園大学音楽部」(64)、「日本大学芸術学部図書館棟」(71)など。

    写真:島﨑爽助

  • 藤森照信

    Fujimori Terunobu

    建築史家。建築家。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。専門は日本近現代建築史、自然建築デザイン。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラ・ハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞。

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