Case #1

まちを起こす戦略としての建築 その1
ジョンソンタウンがよみがえった

緑あふれる小路に、手づくりの看板。趣味の音楽を楽しみ、週末はテラスでバーベキュー。家賃は周辺より高めだが、それでも入居希望者はたえない。「米軍ハウス」を壊さずに使うことと、徹底したまちなみ管理に、そのポイントはある。

作品 「ジョンソンタウン」
場所 埼玉県入間市

取材・文/加藤 純
写真/傍島利浩

  • ジョンソンタウンのまちなみ。1954年頃に建てられた米軍ハウスが連なっている。

 埼玉県の入間市駅から歩いて約18分。国道沿いの白いペンキ塗りの建物には、青地に白い文字で「JOHNSON TOWN」と描かれた看板があり、星条旗が掲げられている。直交して延びる道には、いわゆる「米軍ハウス」の平屋が両側に並び、視線の向こうには緑が濃く生い茂る。歩を進めると各住戸の庭は塀なく続き、飲食や物販の路面店が点在する。そこにあるのは新しい風景。リラックスムードの漂う魅力的なこの街区だが、15年ほど前まで、まったく別の意味で周囲とは異なるエリアとして知られていた。

  • 米軍基地時代の写真
    1960年頃の写真。当時住んでいたアメリカ人がこの地をなつかしんで、来訪することもあるという。
    提供/ジョンソンタウン

「磯野スラム」からの再生

「磯野スラム」。管理する磯野商会の名をとって、この街区はいつしかそう呼ばれていた。始まりは、磯野商会が1933年に製糸会社から約20万坪の土地を取得したことにある。当初は農場を経営する計画であったが、目と鼻の先に飛行場ができて陸軍航空士官学校が開校すると、家族を同伴する下士官などの住宅が必要になり、この地に「日本家屋」が50棟ほど建てられた。
 太平洋戦争終結後には、農地解放政策のため、磯野商会には現状の約8000坪だけが残る。陸軍航空士官学校はGHQにより接収され、「ジョンソン基地」に改名。朝鮮戦争では同基地が米軍の最前線基地となり、基地外にも、将校や軍人と家族のための米軍用ハウスが求められた。その時点で、磯野商会は「米軍ハウス」24戸を建設。キッチン・ダイニングとリビング、ウォークインクローゼット、ふたつのベッドルーム、そして当時は珍しい一室にまとまった水洗トイレと浴室に給湯器も設置されたプランであった。
 78年に基地が自衛隊入間基地として返還されると、日本人向けに賃貸されていくが、次第に建物の老朽化と居住者の高齢化が進行し、家賃の低下と環境の悪化を生む負のスパイラルに陥るようになっていた。磯野達雄さんが兄から地区の管理を引き受けた96年には、相当に住環境が荒れ廃れていたのである。
「周辺では米軍ハウスはアパートなどに建て替えられていたのですが、ここは幸か不幸か、何もされずに残っていました。でも、米軍仕様の自由でのびのびとした雰囲気が好きで、わざわざ住みたいという芸術肌の人も少なくなかった。元の形できれいにしてよい住宅地にしようと決心しました」と達雄さんは振り返る。それから、約15年にわたる整備の道のりが始まった。

  • 路地は狭いが、施主の磯野さんがこだわって植栽し、住人の趣味があふれる場となっている。

  • ジョンソンタウン東側の駐車場。来訪者はここで車をとめ、徒歩でまちなかを歩く。住人に配慮したゾーニング。

残すものと刷新するものを分ける

 建築家の渡辺治さんがこの地区を知ったのは、事務所に営業に来ていた磯野さんの親戚の方との雑談からだった。紹介を受けて現地に訪れ、達雄さんから「この住宅地をどう思う」と聞かれた渡辺さんは、「残しましょう。すばらしい住宅地になると思います」と答えた。学生時代に都市計画を学んだ渡辺さんは、ニューヨーク郊外の田園都市に数カ月のあいだ、ある住宅の子ども部屋を間借りして留学生活を過ごした経験があった。また、イギリスでコミュニティ施設やスラム化したまちの活性化事例を調査したこともあり、郊外住宅地の再生という点では格好の人物であった。
 渡辺さんと達雄さんは話しあいを密にし、路地の整備や電柱の移動といった通りの景観の整備を行う。加えて大きな特徴は、地区内での住宅の配置はほぼそのままに、米軍ハウスは改修して残し、日本家屋は新築の「平成ハウス」として刷新することであった。渡辺さんと同時期に、達雄さんの息子である磯野章雄さんもこの計画に加わる。章雄さんは住民に地区の未来予想図を伝えながら、居住移転の調整に奔走した。「最初の4年ほどは整備の下地づくりでした。なにしろ、家賃滞納が2000万円ほどあったのです。1軒ずつまわって、行政の窓口のように相談にのりながら移転を促していきました」と振り返る。
 住宅の配置計画は、南向きをよしとする日本ではあまり見られない特殊なものだ。方位とは無関係に、住戸の入口とリビングは街路に向けられてまちなみが構成されている。建て替えでも同じ構成を踏襲し、魅力的な路地と庭を残して建物の規模を揃えていった。街区の構成と密度を、従前と同じようにしたのである。
 米軍ハウスの改修では、土台や柱の一部が腐食していたが、それでも残そうと、ジャッキアップを行い、基礎をつくり替え、腐食部分は取り替えたり継ぎ足し、構造用合板で構造補強した。また床下や壁、屋根下に断熱工事を行い、サッシを交換して居住性能を向上。床板やトラス、セメント瓦など、元の材料で使えるものは再利用した。
「平成ハウス」は米軍ハウスと同じ規模、すなわち4間×5間で20坪の大きさで計画されている。建物の高さや屋根の4寸勾配も、米軍ハウスに揃えた。一方、トラス構造の米軍ハウスに対し、根太構造で屋根裏に居室を設けられるように工夫。外壁も米軍ハウスのように白い材の鎧張りであるが、防火のためサイディングボードを採用した。1階の床は土間コンクリート仕上げで、スラブ内には暖房が仕込まれている。渡辺さんは「GHQが戦後の住宅のプロトタイプをつくろうとしたように、現代の家族のためのプロトタイプを目指した」と語る。平成ハウスには、同じプランはひとつとしてないものの、出入りの仕方と1階の土間空間の仕様は共通。庭から続くデッキテラスを通してリビングに入るプランで、リビングと隣接する予備室や個室も、間仕切り戸をあければ一体となり、米軍ハウスで見られた様式、ライフスタイルを継承している。外部からほぼフラットに連続したおおらかなつくりは、バリアフリーの住居に適している。結果的に、店舗併用の入居者やペット飼育を増やすことになり、街区全体の特徴となっている。

  • 米軍ハウスのテラスと路地。写真右から、建築家の渡辺治さん、施主の磯野達雄さん、章雄さん。

  • 北側から見たジョンソンタウンのまちなみ。米軍ハウスと平成ハウスの見分け方は、前者が瓦葺きで横長窓、後者がスレート葺きで縦長の上げ下げ窓があること。

周辺相場より高い賃料でも地区離れはない

 整備が進み、この地区景観にひかれた店舗が増えてくると、かつての基地名にちなんで「ジョンソンタウン」として知られるようになる。個性豊かな住人が増えたひとつの要因は、室内の改修については自由度が高いことにある。米軍ハウスも平成ハウスも、管理事務所に工事内容を事前に申請して認められれば、内装や造作のカスタマイズが可能。一方で、外まわりに手を入れることは禁止され、街区の環境保全が図られている。これは、この地区の維持管理ならではの特徴を生かしたメリットといえる。賃料は、周辺相場よりも高く設定したが、住人の地区離れはなく、タウン全体の年間利率は章雄さんによると、かかった建設コストの2割を超えている。
 現在の世帯数は130、住人の数は約200名。ジョンソンタウンには50を超える店舗があり、飲食店、物販店、フォトスタジオやダンススタジオなど、さまざまな業種業態が集まり、近しい景観が人々の興味を引くこととなった。平日も人通りはたえないが休日は特に賑わい、現在の年間の来訪は車の利用者で30万人、歩行者を含めると40万人を超える。車両の通行量の増加に伴い、歩行者が危険にさらされることが長らく問題とされていたが、外来用のまとまった駐車場用地をタウンの端に取得することでクリア。今では地区内を通るのは住民の車両や郵便車などに限られ、徐行が求められている。
 にぎわいが出てくると同時に、店舗を設けず住宅専用で暮らしている住民の不満や不安は高まりがちだ。だからといって明文化した規則を多く設けるのでは、みんなが息苦しくなってしまう。管理運営をする章雄さんは「ここを魅力と感じて集まってこられる人たちのクリエイティビティを生かしたい。住民の協力を仰いでクリスマスイベントや子ども向けのコンサート、青空市を開催するなどしています」と、コミュニティ形成に力を入れることで問題を解決しようとする様子を語る。
 タウン内で暮らす傍らアメリカンダイナーと物販を行う「BLUE CORN」の店主、小林大介さんは「隣人との距離が近く、休みの日にはバーベキューなどでテラス前に自然と人が集まります。タウン内はテーマパークのような感覚なので、物干しを表に出さないようにする決まりも納得できますし、焼き魚のニオイはそぐわない。食べ物まで、アメリカ仕様に変わってきました」と笑う。

  • 米軍ハウス
    リビング兼喫茶店。奥はテラス。上部ロフトは住人による改修。トラスの小屋組みは当時のまま。

  • 米軍ハウス
    入口側外観。解体された家の古材を用いたウッドデッキには、ヴィンテージカーが置かれている。

  • 米軍ハウス
    建物南側のテラス。室内とテラス間には段差がないため、リビングと一体化して利用される。

  • 米軍ハウス
    ロフト下のスペース。奥にキッチン、左にテラス。ここに住みながら、喫茶店「guzuri」を営んでいる。

  • 平成ハウス
    1階リビング。米軍ハウスを踏襲し、外まで段差なく連なる。そのため、玄関室は設けていない。

  • 平成ハウス
    建物外観。2住戸で1棟の長屋形式。

  • 平成ハウス
    水まわり。バスルームには洗い場を設けている。

  • 平成ハウス
    2階ロフト。居住者による改装を想定、改装しやすいOSB板を内装材としている。

安心できるまちを目指して

 渡辺さんは、培われてきた住環境とコミュニティによって、当初思い描いた「安全・安心のまち」が実現しつつあることに満足の表情を浮かべる。「はじめはタウンに住む子どもは0でしたが、今では50人ほどになって、路地を散歩する親子の姿も多くあります。それだけでなく、高齢者や障害者もバリアフリーの住居に魅力を感じて、暮らしはじめています」と語る。最近、公共的に使える身障者用トイレをタウン内に設置したほか、住戸内に握り棒や昇降機を設置した例もある。ジョンソンタウンは、幅広く多様性を受け入れるまちとなった。
 受け継いだライフスタイルを軸とした転換を経て、負のスパイラルから歯車は逆に回転しはじめた。さまざまな相乗効果を生み出し、ジョンソンタウンの魅力は高まりつづけている。

  • そのほかのハウスの種類
    日本家屋
    1938年頃、日本陸軍の駐在時代に建てられた住宅。写真は2軒長屋形式で下見板の外壁は、ジョンソンタウンに合わせて改修。4棟のみ残る。

  • そのほかのハウスの種類
    セキスイハイムM1
    1970年代に、日本で初めて開発されたユニット工法が用いられた住宅。工業化住宅では唯一、DOCOMOMO JAPANに選定されている。

「米軍ハウス「1123棟」」
  • 建築概要
    所在地    埼玉県入間市東町
    主要用途 スタジオ併用住宅
    建主 磯野商会
    設計 吉沢建設
    構造 木造
    施工 吉沢建設
    階数 地上1階
    建築面積 104.80㎡
    延床面積 93.15㎡
    竣工 1954年

  • おもな外部仕上げ
    屋根      セメント瓦
    外壁 南京下見板張り
    開口部 アルミサッシ
    外構 テラス
    おもな内部仕上げ
    スタジオ
    既存(アピトンフローリング張り)
    OSB t=9㎜ AEP仕上げ
    天井 小屋現し、杉乱板張り
    洋室
    パインフローリング張り
    壁・天井 OSB t=9㎜

「平成ハウス「5443棟」」
  • 建築概要
    所在地 埼玉県入間市東町
    主要用途 専用住宅
    建主 磯野商会
    設計 渡辺治建築都市設計事務所
    構造設計 同上
    構造 木造
    施工 波多野建築
    階数 地上2階
    敷地面積 253.91㎡
    建築面積 99.32㎡
    延床面積 149.05㎡
    設計期間 2007年5月~10月
    工事期間 2007年10月~12月

  • おもな外部仕上げ
    屋根 平形彩色スレート葺き
    外壁 縦張りサイディング t=16㎜
    開口部 アルミ製建具、樹脂製建具、木製建具
    テラス レンガ積み
    おもな内部仕上げ
    リビング、ダイニング、キッチン
    コンクリート打放し金こて仕上げ
    OSB t=9㎜
    天井 構造用合板 t=28㎜、OSB t=9㎜(吹抜け部分)
    ロフト
    床・壁・天井 OSB t=9㎜

Profile
  • 渡辺 治

    Watanabe Osamu

    わたなべ・おさむ/1959年北海道生まれ。85年北海道大学修士課程修了。86年ペンシルバニア大学修士課程修了。91年東京大学博士課程修了。92年渡辺治建築都市設計事務所設立。おもな作品=「多摩川幼稚園」(94)、「至誠第二保育園万願寺分園」(2001)、「東京ゆりかご幼稚園」(14)。

  • 施主

    磯野達雄

    Isono Tatsuo

    いその・たつお

  • 施主

    磯野章雄

    Isono Akio

    いその・あきお

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