インタビュー

村野藤吾は「現在主義」

——「様式の上にあれ!」を書いたとき、村野藤吾はまだ20代ですね。20代の青年が、過去にも未来にもとらわれないという、熟練ともいえる発言ができた背景はなんでしょう。

長谷川「様式の上にあれ!」の原型は、彼の卒業論文「都市建築論」にすでに出ています。おそらく、そうした考えは出身校の早稲田大学での教育の影響があるのではないかと思います。佐藤功一が主任教授でしたが、彼のルネサンス建築の講義は、じつにすばらしいものだった、と村野さんに聞かされましたよ。ただ、設計課題では、たとえばバロックの銀行建築などといった様式指定があったにもかかわらず、村野さんは全部セセッション、つまりモダニズムのデザインを描いていたそうです。そういうことをしていたので、「佐藤先生はいつも僕の後ろを通りすぎ、ほかの学生のところに行ってしまう」と村野さんは言っていましたが、僕は佐藤功一は村野さんを認めていないから通りすぎたのではないと思いますね。むしろ言うことがなかったというか、あの時代の学生のひとつのピークを感じとっていたのではないかと。

——過去の様式を学ぶ環境にいながら、自分自身は未来的なセセッションに取り組み、両極の世界の狭間にいたのですね。

長谷川 早稲田大学を出たばかりの頃は、まだ未来主義的な価値観をもっていましたが、渡辺節の建築事務所に就職してから、その考えが変わったのだと思います。渡辺節の村野さんへのオーダーは、「売れる図面を書いてくれ」ということでした。セセッション、つまりモダニズムのデザインは売れないと徹底して言われ、村野さんも様式建築を本気で勉強したそうです。大学で様式建築を高尚に学ぶのとは違って、施主が喜ぶような「売る」ための様式を学んだのですよ。建築のそういう側面を、村野さんは渡辺節の建築事務所で見たのだと思います。そんな仕事を続けるうちに、村野さんのなかでは「様式の上にあれ!」という想いが固まっていったのでしょうね。要するに、過去には真実はなく、未来にも真実はない。真実があるのは現在だけ、という想いです。

——仕事として様式と向き合うことによって、理想よりも現実を重視した考えになっていったのでしょうか。

長谷川 当時の時代背景としても、国家や社会を主役に据えていた時代に対し、「私」という一人称で世界を見ていくような、現実的な運動が始まっていますよね。日露戦争が終わって、少し社会に余裕が出てきたときに、文学では白樺派が出てきたりして、沸き立つように「個」の存在が重要視されました。村野さんが学生時代を送ったのは、まさにそういう時期です。そして、学生時代に村野さんが愛読していたのが、有島武郎(たけお)。じつは、村野さんとそっくりなことを有島が言っているんですよ。「センティメンタリズム、リアリズム、ロマンティシズム——この三つのイズムは、その何れかを抱く人の資質によって決定せられる」(『惜みなく愛は奪ふ』新潮社)です。センティメンタリズムが過去、リアリズムが現在、ロマンティシズムが未来にあたります。そして、有島は「私にも私の過去と未来とはある。然し私が一番頼らねばならぬ私は、過去と未来とに挾まれたこの私だ。現在のこの瞬間の私だ」と言っています。村野さんは、有島に共感し、現在の自身を大事にするような設計の仕方を考えるようになったのだと思います。

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