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妹島和世+西沢立衛 / SANAA展
SANAA KAZUYO SEJIMA + RYUE NISHIZAWA
2003 05.24-07.26
なにか欠けたおぼろげな建築
レポーター:美濃部幸郎
白いスライドとクールな説明が起伏なく続く、約2時間の講演であった。
講演の内容は、ギャラリー・間で7月26日まで開催されている「SANAA展」に展示されているプロジェクトのうち6作品に実施2作品を加えた8作品を2機のスライドで紹介するもので、妹島氏と西沢氏が交互に説明するスタイルで行われた。両氏ともに建築を言葉で表現するタイプの建築家ではないから予想はしていたものの、その抑揚のない語り方に近年のSANAAの建築作品にも感じられる、なにかが欠落した印象を受けた。

「SANAA展」も淡泊だ。進行中のプロジェクトを大きな模型で表現した展示は、手足の細い10等身ほどの特徴的なひと模型に以前のポップな演出の面影があるのみで、木は写真をスキャンしたもの、模型の他の部分はすべて白いために色のメリハリもなく、脚色を削いでクールだった。この脚色やメリハリのなさにも、近年の作品との連動を感じた。
おそらくそれは、建築としての存在よりも、そこに存在する物の物理的現象や人の視覚に捉えられる知覚現象、あるいは建物を使用する人びとの活動による現象といった、現象自体に優位を与えるために、建築を構築するさまざまな水準や物が欠如したおぼろげな建築といえる。

こうした「何かが欠如した建築」は、講演の冒頭で示されたスペインの「バレンシア近代美術館増築」に顕著に感じられた。この計画は、旧・新市街の境界に建つ20,000uの美術館に10,000uのギャラリー・収蔵庫・カフェや彫刻広場などのパブリックスペースを増築するという与条件に対して、有孔板で作られた高さ35m(建物の倍の高さ)、平面90m角の直方体(特に「SKIN」と呼ばれている)で既存建物を覆うというものである。増築部分は既存部分とSKINの間に、事後的に見いだされている。
講演風景
講演風景
「バレンシア近代美術館」の遠景コラージュ
「バレンシア近代美術館」の
遠景コラージュ
 
「バレンシア」SKINの原寸スタディ
「バレンシア」SKINの原寸スタディ
「トレド美術館ガラスセンター」模型内観
「トレド美術館ガラスセンター」模型内観
「デザイン・スクール」遠景コラージュ
「デザイン・スクール」遠景コラージュ

写真提供=SANAA(講演風景以外)

この巨大な鞘堂(さやどう)ともいえるヴォリュームの表面には、窓や階といった日常的なスケールを示す表面の分節が無いことで、スケール感が欠如している。さらに、有孔板の穴を通して内外の空気がつながることで内外の分節が曖昧化され、内部から穴を通して外の風景が透けて見えることで、覆いが半ば消える。
このように巨大なものの存在は、表面の扱いによって常にそれが無いこととの間に両義的に定義されている。

面白いのは、建築のいわゆる「軽さ」の問題が、以前のSANAAであれば、たとえば空間単位をただ並べることによって空間の構築的な階層性を消すといった、空間を配列する水準で検討されていたものが、「バレンシア」では内部のような外部空間による建築、あるいは見えなくなりそうな覆いといった、物としての建築を曖昧にすることへと向いていることである。 
このことは、計画のスタディとして示された原寸模型を用いたSKINの検討に著しく表れていた。

講演中に、異なる大きさの穴が開けられた原寸大のSKINの部分模型によって、実際に向こう側の風景がどのくらい透けて見えるのか、屋外で実験しているスライドが何枚か見せられた。同様に、SKINを支える多数の柱による空間の密度感が柱スパンによってどのように変化するのか、紙管による原寸大の柱模型によって試す光景も説明された。
たとえば妹島氏による「岐阜県営住宅ハイタウン北方」では、住戸を構成上の単位とすることなく室の並列によって一気に全体を構成することで、建築の構成的な軽さを成立させていた。これに対し「バレンシア」のプロジェクトでは、建築を空間配列ではなく覆いや柱といった物の水準へと還元し、その存在を視覚現象において曖昧化することで、建築の軽さを知覚的に経験させようとしているようだ。

こうした視覚現象のスタディは、講演中に異なるプロジェクトで何度も示された、それぞれの模型の内観写真によるスタディとも関連する。
たとえばオランダ、アルメラの「スタッドシアター」であれば、劇場や音楽・絵画教室といった異種の活動が同時に並存する状態が、それを内包する室の並列という空間配列の水準だけでなく視覚上も成立するか(他の諸室の活動がこちらから重なりながらも見通せるか)が、また「トレド美術館ガラスセンター」であれば、さまざまな室の重なりだけでなく、周囲の外部空間への見通しまで含めた空間の分節と連続が室どうしを分節するガラスのレイヤーや曲面ガラス特有の像の歪みによって如何に曖昧に現象するかが、模型の内観写真によって検証されていた。
こうした視角現象への接近によって、建築は物的存在と知覚上の存在との間に漂わされることになる。

このように現在のSANAAは、さまざまな活動を伴った諸々の室を並置することで、建築を構築的な階層性の欠如したものにするに留まらず、建築の存在を視覚現象のうちに曖昧化させる。こうした何か欠けたおぼろげな建築は、建築の透明性の新ヴァージョンなのだろうか。
ドイツ、エッセンの「デザイン・スクール」のプロジェクトでは、ファサードから階数を示す分節を無くすことで身体的スケールを消失させ、ヴォリューム自体の大きさを強調すると同時に、その大きさを隣接する住宅群や工場とほぼ同じにすることで、分散した住宅群と工場を大きさの同一性によってつないでいる。

こうした既存の環境において他者とのまとまりを自らの不確かさによって獲得する試みに、ミニマルな意匠をまとった単体の建築に収束しない可能性の一端を見た。

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