TOTO出版20周年記念第1弾
講演会「近著と建築・デザインを語る」
講師=磯崎 新(東京)、杉本貴志(福岡)、原 広司(仙台)、安藤忠雄(名古屋)
開催ずみ
第1回
磯崎 新 / 東京講演会
「『日本』がまだあった頃」
(2010.03.02)
「進むべき道はない。だが進まなければならない。道はアルゴリズムだ。」

レポーター:藤村龍至

現代音楽家、ルイジ・ノーノの音楽が流れるなかで磯崎氏の話が始まった。スライドはない。語りかけるような口調で問題が設定される。
「進むべき道はない。だが進まなければならない」というタルコフスキーの宣言は、1990年当時、ノーノや自分たちのジェネレーションが感じていた気分だったという。1989年にベルリンの壁が崩壊し、いよいよ「前衛」という立場が行き詰まったその頃、問題の整理がつかないうちに「1995年」を迎える。阪神大震災、オウム真理教事件、情報化社会の到来。それまでと全く違う状況が訪れた。グローバリゼーションと情報化を前に、「建築」の枠組みはもはや消えつつあった。
柄谷行人は景気の循環理論を文化的状況に援用し、60年周期説を唱えた。磯崎氏はそれをさらに建築に応用し、「1995年」を「1935年」と比べようとする。昨今いわれる「グローバリゼーション」と当時の「大東亜共栄圏」が重なる。
1942年、戦況の悪化のなかで、当時の思想家、文学者たちが集まり「近代の超克」という討論会が行われた。「近代」と敵国である米英が重ねられ、ある興奮状態のなかで交わされた議論の場に、建築家は呼ばれていなかった。
その頃、満州や南方での仕事を任された建築家たちは、様式を詳細に検討する余裕もなく短期間で仕事をしなければならならなかった。「在盤谷(バンコク)日本文化会館」コンペ(1943)で前川は「環境空間的」、丹下は「環境秩序的」というコンセプトを打ち出す。現代の「エコ」同様、建築の枠組みが壊れたときに「環境」が持ち出される。現代と全く同じ構図である。
思考の枠組みが壊れたとき、どのように批評を組み立てればよいか。丹下健三はその頃、建築という枠組みが壊れたので、まず都市計画に取り組み、それを根拠に「建築」を構想する、という戦略を採った。全ての建築を商品にしてしまう現代、我々は「根拠」をどのように再構築できるだろうか。
まさに「進むべき道はない。だが進まなければならない」状況である。1940年代の建築家たちも今の建築家と同じ気分を味わっていた。丹下が「都市計画」を手がかりにしたように、磯崎氏は「アルゴリズム」が現代の状況を打開する手がかりにできるという。丹下時代の「都市計画」に「アルゴリズム」を、「政治」に「コンピュータ」を、それぞれ当てはめるならば、現代の建築家を取り巻く状況と課題がよく理解できるだろう。
磯崎氏も指摘するように、1995年を契機に時代状況は大きく変化した。思考の枠組みが崩れ、現代思想も、美術も、音楽も、あらゆる分野が批評の根拠を求めようと模索している2000年代の状況は、1940年代のそれと重なるといえるのかもしれない。ここ数年わが国の思想的状況においても、1942年の「近代の超克」と同じように、1995年以後の技術的、社会的状況の変化に伴うある興奮状態のなかで、批評の根拠が話し合われているからである。そのひとつのピークとして2009年12月に東京大学で開催された「ウェブ学会」では、ウェブの行方を論じるために「政治」が手がかりとして導入されていた。そしてそこには、「近代の超克」と同様、建築家の姿はなかった。
道が見えなくなってしまった時代、道なき道を進まなければならないのは変化の時代を生きることの宿命である。現代の建築家も、批評家も、編集者も、この状況に向かい合わなければ次の時代はない。
とはいえ、磯崎氏が整理するように、1995年以後の文脈で私たちに今、必要な戦略は、近年かなりはっきり見えてきた。かつて丹下の時代には「大東亜共栄圏」や「社会工学」や「統計学」が背景にあったが、現代には「グローバリゼーション」や「情報工学」や「集合知」がある、ということがかなりはっきりしてきたからである。かつて丹下やメタボリストがまず都市計画を構想し、それを土台に建築を定義したように、現代の建築家はまず情報環境を構想し、それを土台に建築を構想する必要がある。1940年代の「道なき道」の時代から1960年代の黄金期へと華やかなカーブを描くまで、一連のプロセスを目撃した磯崎氏には、現代の建築にとっての突破口がはっきり見えているのだろう。だからこそ「道はアルゴリズム」だとはっきり宣言できるのである。
ところでこの講演は、磯崎氏の近著『磯崎新の建築・美術をめぐる10の事件簿』の刊行に合わせて開催された。同書は美術史の若手研究者である阿部真弓氏、新保淳乃氏と磯崎氏の対話により15世紀から20世紀に掛けてのイタリアの動きを解釈論的に追っていくものである。磯崎氏は定点を定め、それとの距離、関係で自らの思考を構成するタイプであるから、建築も美術も作品と運動が絶えず生まれ、世代交代していくイタリアは、作品も運動も生まれにくい日本で建築や美術を考察する上で、かっこうの参照源であり続けた。
今回のレクチャーでは10の事件簿のうち、もっとも現代に近く、また磯崎氏がもっとも関わりを持った時代ともいえる1980-1990年代の話題が中心であった。「事件簿」の記述は今のところ20世紀末で止まっているが、これは何かを意味するのかも知れないとも思う。ステファノ・ボエリらの一連のリサーチが明らかにしたように、2000年代以後のイタリアもまた、グローバル資本主義やEU統合による均質化と無縁ではなく、歴史の深いイタリアでさえも、作品や運動の生まれない日本的状況に覆われてしまっているようにもみえるからである。磯崎的思考は今日のイタリアにおいてどのように成立するのか、あるいはしないのか、成立するとすればどこが参照源たりうるのか、検証したくなる。でもそれば、むしろ私たちのジェネレーションの課題でもあろう。
第2回
杉本貴志 / 福岡講演会
「杉本貴志のデザイン 発想|発酵」
(2010.03.05)
「豊饒の旅へ」

レポーター:高木正三郎

かの地の生活者が創り出す日常風景、観光地としてにぎわう風景、そこを旅すれば、誰でも遭遇することのできる風景でありながら、杉本が拾い上げた風景でもある。デザインを語るデザイナーが、自ら見てきたモノを開示するのは全く王道の、というよりごく自然な振る舞いである。だが、講演やスライドレクチャーなどの過ぎゆくものとしてではなく、一冊の書という社会的産物として結晶している。作品集だと思ってこれを手に取れば、そこには様々な意見があるかもしれない。杉本は無論それを承知でやっている。編集している。それに「責任」の二文字を添えている。
技術論や社会論などをよりどころに三段論法的で作品が語られる、ような構成ではない。ものつくりの舞台裏が告白されているわけでもない。あるのは、作品を埋没させるかもしれない旅の風景群である。それらがどう作品と関わっているのか、あっけらかんと黙されている。受け手の感性に向かって放り投げられている。そのギャップに唯一「発酵」という二文字が当てはめられる。しかし、「発酵はするんですよ、自分で意識するかしないかということではなくて」と、その作為すらも否定される。おそらくは、デザインの手引き書としてなにかを得ようとすると、遠ざかっていく。
こういう危なげなものを世に送ったのはなぜか。幸運にも、それらの推測に虚しく終わることなく、ずばり本人の肉声によって直接疑問を晴らす機会を得た。小雨降る福岡の会場は定員637名。ほぼ満席。地方都市の民度が測られる瞬間。杉本の肉声ははっきりと力点を持っていた。
「綺麗なものだけが、私たちを豊かにするのではない」
「文化の違いこそが、私たち人間の豊かさ」
互いの文化を認めよう、といった啓蒙的な呼びかけではない。自らのものとは異なる文化に触れた時やその箇所に、むしろ豊かさが醸成するのだ、との確信である。量や質による豊かさでもない。時に争いを起こす根元でもある文化の差異は、真の豊かさの根元でもあると言っているようである。建築はもちろん、衣服にも、食べ物にも、五感で感じられるあらゆるものの差異=摩擦熱のようなものが産み出した豊かさを、杉本の旅は探り寄せている。空間をデザインするとは、そのどん欲なまでに呑み込んだそれらの咀嚼と再生なのであろう。そこでは、美しいとか醜いとかの分別から自由な世界が、自ずから拡がる。無分別智=ものごとを分別しない智慧、そこから産まれる自由。かつて道元は只管打坐(しかんたざ)「仏になろうという目標など捨てて、只、座り続けなさい」と言った。美しいデザインをしたいなどの焦慮は捨てて、人々とその風景に文化のヒダを見届けよ、そういうメッセージがこの書の全身全霊に込められているように思った。
第3回
原 広司 / 仙台講演会
「YET:Cloud & Flow」
(2010.03.17)
「YETの様相」

レポーター:櫻井一弥

「様相」を紐解く“雲”と“流れ”
“YET : Cloud and Flow”と名付けられた原広司さんの講演会は、未完のプロジェクトと実際に建築として結実したプロジェクトが全く等価に扱われ、雲と流れをキーワードに作品を紹介するというスタイルで始められた。動画で示された原自邸はいまなお輝きを失っていないし、札幌ドームのモードチェンジなどは見ているだけで興奮するのだが、そうした建築の即物的な評価とは別に、原さんの思考が“比較的”わかりやすく説明された貴重な機会であったように思う。
 Cloud = 雲のように、時々刻々とその様態を変化させながら存在する建築
 Flow = 流れのように、その場を支配するベクトル場が変わっていく空間
普段の原さんに比べるとだいぶ平易な言葉でお話しされていたと思うので、私を含め一般の来場者もおおかた理解できたのではないかと推察できるが、原理論の真骨頂とも言える位相幾何学的・論理学的なアプローチの話となると最早完全には理解不能。理解不能なのだが、そこに表現された、常に未来を感じさせる概念やスケッチというのは、他の建築家にはマネのできない大きな魅力となって我々に迫ってくる。近年のクラウド・コンピューティングを参照しながら、結構昔のプロジェクトの雲的な特徴を述べるところなど、その先見性の確かさには驚かされる。
原さんが初期のころから引き合いに出す「様相」という論理学用語。建築を一つの物理的な固定された実態として理解するのではなく、時間軸上に展開された場-fieldの集合として記述しようとするフレームが、今回の雲と流れという括りによって、ぼんやりとではあるにせよ多くの人々の心に印象づけられたはずだ。

「YET HIROSHI HARA」の鮮烈な魅力
今回の講演会は、同名の新著の出版記念講演である。YET、すなわち未完の建築プロジェクトを集めたもの。初期のころからほとんど一貫した手法が採られていることに改めて驚いた。
学生になり立てのころ、原さんのラ・ヴィレット公園コンペ案を見て衝撃を受けたことを思い出す。その時点で既に10年以上前の作品であった訳だが、コンピュータによる作図やプレゼンテーションがまだ一般的でなかったころ、レイヤーという概念を用い、建築を現象の重ね合わせとして説明しようとするクールで特徴的な手法に憧れた。レイヤーという考え方は、その後CADの普及などによって建築系の学生にはすんなりと身体化されていったのだが、ここでも原さんの先見性が光っていたと言えるだろう。
本の中に散りばめられた「YETの教え」-短いアフォリズムは、ニーチェの思想を彷彿とさせる。そこには体系化された理論があるわけではなく、極めて断片的な小文の集積なのだが、それがかえって力強く我々の胸を打つのである。鋭い洞察と魅力的な絵。パラパラと本をめくっただけでも、それらが鮮烈に浮かび上がってくるのを実感できるのではないだろうか。
第4回
安藤忠雄 / 名古屋講演会
「創造の原点」
(2010.07.22)
「知識 vs 体験」

レポーター:久野紀光

全国ほぼ一斉の梅雨明け宣言がされるやいなや、各地が記録的な連日の猛暑を迎えた7月の下旬。 開演地の名古屋も最高気温38度を記録し、体温より熱い空気が夕方の都市を覆っていた。
うだるような猛暑にもかかわらず、安藤忠雄の声を聴きに集ったのは900人を超える、しかも文字通り老若男女。普通、この種の講演会が、仕事帰りの社会人や建築を就学中の学生で占められるのとは明らかに様相が異なり、講演直前の会場を見渡すと、中高生やら子供連れの母親、第一線から退いた高齢者が多く、市井の英雄である建築家安藤の面目躍如たるものがある。
そうした観衆の様相にアドリブで応じたのか否かは知る由もないが、突然始まった安藤の講演の少々長いマクラは、スライドも建築の話も一切ない。3,000人分の「事前正規チケット」を完売して2週間前に開催した上海同済大での講演会が、実際は「複写チケット発売」のために5,000人を集めたというエピソードを交え、独特のユーモアで会場を笑いで満たす。
やおら、最初のスライドが映された。
ロンシャンの礼拝堂である。
1955年に撮影されたというその写真が括りとっていたのは、建築それ自体ではなく、礼拝堂前に集ったおびただしい数の人間の風景。
「人が集うこと。そこに生まれるエネルギー。そのために建築を創る。」
スクリーン上のおびただしい人間の風景と、それを900人の聴講者が一堂に視ている事実とを、安藤のことばがシンクロさせる。
以降、90分弱の講演でスクリーンに紹介されるのは、全篇安藤の創った大量の事実「だけ」である。
ともすると建築を建築関係者以外から遠ざける小難しい論理や知識の披露など一切ない。筆者自身20年程前から幾度か安藤の講演に出向いているが、誤解を恐れずに言えば、語られるのはいつも安藤の創った事実と実体験談である。ネタは大抵判っている。
それにも関わらず毎回惹き込まれる安藤の語り口は、さしずめ噺家のそれに近い感を覚える。
この説得力、わかり易さが建築関係者以外やリピーターを集客する安藤の真骨頂なのだろう。そういえば、安藤の建築それ自体も、噺家に近しい創作的説得力を発しているようにみえる。

「経験主義的建築修業は、過去の作品に学ぶ、つまりは歴史を学ぶことから成立していた。モダニズムはそれを否定する。無から有を生じさせることは可能だと考えるのがモダニズムである。合理的分析の積み重ねは、必ずや解に到達すると考えるのである。」(鈴木博之+東京大学建築学科編/『近代建築論講義』/東京大学出版会/2009)
安藤の建築では単純幾何学と限定された素材による上質な近代建築の語彙が繰り返し使用されていることは、(特別な建築教育を受けていなくとも)多くのメディア・写真により広く周知されて久しい。しかし、それはあくまで見てくれだけに囚われた、いかにも日本らしい粗っぽい取材であり、実際の安藤が、時間を捨象し普遍性を夢想した近代建築に真っ向から抗っていることを正しく説明しているメディアとなると、なんとも心許ない。いや、亜流も含め、近代建築の語彙がこれほどに氾濫した現在、飽きっぽい日本人が永らく安藤に注目し続け、こうして猛暑の下に900人の老若男女が集まる事実が示すのは、メディアよりよほど大衆の方が鋭敏に—それを自意識しているかどうかは別として—安藤に他と違う何かを看取しているのかもしれない。同じ演目でも噺家によって歴然と生じる高座の差を、記事より大衆が先んじて感知するように。
だから、今回の講演において安藤が繰り返し口にした知識と体験の差異も、単なる彼の建築家としての出自を伝説化する装飾と捉えるに留まっていては、この高座を半分も味わえていないことになる。上記に引用した鈴木博之の精緻な一節が導くように、知識と体験の差異とは、つまり近代建築と安藤の建築との差異の説明に他ならない。換言すれば、20世紀、身体を経由しない理念としての知識に偏重した社会や、功利が追い求めた末に苛まれた現在の閉塞感を打破するために、忘れ去られた身体を奪還し、これを経由した体験の集積の先に、時に理不尽な生き生きとした人間の事実を創るしかない、と彼は宣言しているのだ。知識はその事実を遂行するための戦略としてある、と。
安藤は言う。
「(命の)無いところに何も育たない。無から有は生まれない。だから、植林をし、建築を創り、人を、命を集める。」 かくして知識と体験という図式の導入は、近代建築を知らずともこうして咀嚼され、自閉的で小難しい建築論理を迂回して、安藤が近代とは一線を画した唯一無二の創り手であることを900人の聴衆に感じたらしめる。

安藤忠雄の創作を「批判的地域主義(クリティカル・リージョナリズム)」(K.フランプトン/中村敏男訳/『現代建築史』/青土社/2003)として位置づけたのは米国の慧眼の建築批評家K.フランプトンであるが、彼はその定義を以下を含めた7点に要約している。
「批評的地域主義は、“構築的”な事実としての建築を実現することを促進する。」
「批評的地域主義は、経験を情報で置き換えようというメディア全盛の流行に反対する。」
「批判的地域主義は、地域に根ざした“世界文化”という逆説の創造に向かおうとする。」

万民を幸せにするべく20世紀が追い求めた普遍性や制度化といった明快な理念世界と、生き生きとした極めて限定個人から発露する私小説的世界との覇権争いは、どちらに軍配が挙がるのか。70歳を目前にしながら、まばたきひとつせずに戦況を凝視する安藤を間近にすると、後達もこの状況に眼をそらしていては、いまを生きている意味を失いかねないと強く思わせる。
主催
TOTO出版(TOTO株式会社)