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ここに、建築は、可能か,第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館帰国展

シンポジウムレポート
被災地に立って考えること
レポーター=小嶋一浩


2012年の夏に開催された第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展において金獅子賞を獲得し、その秋に陸前高田に完成した「みんなの家」の実現プロセスを紹介した展覧会に伴うシンポジウム「だれのために建築は建てられるのか――みんなの家から学んだこと」が津田ホールで開催された。登壇者はモデレーターの内藤廣と伊東豊雄、乾久美子、藤本壮介、平田晃久の5氏。3.11からちょうど2年にあたるため、陸前高田市出身の畠山直哉は帰郷のため参加していない。
シンポジウム会場
この陸前高田の「みんなの家」のプロジェクトそのものについては、詳細な記録集がTOTO出版から発行され、難波和彦による展覧会レポートもTOTOギャラリー・間のWEBサイトで読むことができる(難波によるレポートは、プロジェクトをどう位置づけるのかについての、大変深い洞察が織り込まれているので、ぜひ一読をお勧めする)。その難波が、シンポジウムの最後に質問に立った。「『災害の普遍性と災害体験の個別性を結びつけるのが真のアートのはたらきである』という彼(畠山)の主張は、このプロジェクトの核心を言い当てている。このプロジェクトはアート(個別性に依って立つ)であってデザイン(個別性を超え普遍性につながるもの)ではないのではないか?」と問いかけた難波の指摘が、「近代以降の建築家の立ち位置=批評性」を超えて何ができるかを問いかけた伊東に対して、「3人の建築家が生み出した成果はいかに?」という意味で、冷静にこのプロジェクトの位置を測定していると言えるだろう。



講演会は、まず、伊東による各地の「みんなの家」の簡単な紹介、次に陸前高田の「みんなの家」の設計から完成までのプロセスを記録したビデオが上映された後、議論に移った。議論は内藤の問いかけ、「『ここに、建築は、可能か?』を考えるのに、まず1年前のTOTOギャラリー・間主催のシンポジウム『311 ゼロ地点から考える』を受けて、伊東からオファーがあった当時、3.11をどう受け止めていたのか?」という3者への問いかけから始まった。「答えられていない日々」(藤本)、「伊東から『みんなの家』のスケッチを求められたが、単体の建築では答えられないと考えて仕組みだけを提出、その後5月に初めて被災地に向かった」(乾)、「建築では役に立たないと、意識はありつつも日々の仕事に向かっていた」(平田)。
伊東豊雄氏
続いて伊東に向けて、「なぜこの3人で『みんなの家』をつくろうと考えたのか?」と内藤からの問いかけ。伊東は、「この時期、前後にいろいろ重なって混乱していた」と、事務所の開設40周年催事や「伊東建築塾」の立ち上げの直前であったことなどを語る。特に「社会を批判的に見るだけでは社会に受け入れられないことを何とかしたいと考えていた矢先に震災が起こった」「この3人は今センシティブで論理的に語れる、エネルギーもあって、とことん考えられる建築家」であり、3人には「建築家が社会に受け入れられない理由は建築家の側にあるということを含めた議論をしてほしい」とオファーしたという。
藤本壮介氏と乾久美子氏
「建築の新しい形式を考える」のではなく「建築を再定義する」のでもない。大変難しいことを、共同で、しかも「具体的な被災地である陸前高田を前にして考えよ」という問題を組み立てる伊東の、真剣に建築を社会に向けて開いていこうという意思が伝わってくる。



さて、実際に設計案としてまとめ上げられた陸前高田の「みんなの家」へのプロセスは、この後の内藤によるていねいな聞き出しもあって、いきいきと伝わってきた。その結果、あまりに「作品性」が勝っているように見える実現案が、菅原さんというキーパーソンあってのものだということ、菅原さんが敷地を変更してきたことのインパクト、など3者3様の必然性が重なっていったのだということもよくわかった。それでも、伊東が藤森照信を引いて話した「素人の問題」、つまりは「近代主義が<新しい><オリジナル><誰もやっていないこと>に価値を見出して大衆性を排除してきたことが今回の問題だ」と問いかけているのに対して、「主義主張ではなく、あの強さをあの場所が求めている」(藤本)という明るさで突破してしまっていいのかどうか? 建築としての強さは、もちろんそこにあるのだが、その「建築の強さ」のありようが、そもそも今回設定された問題だったのではなかったか? そういう意味で、伊東の問いかけに対する3者の答えは道半ばであるとも言えるだろう。
平田晃久氏とモデレーターの内藤廣氏
私は、Archi-Aid(東日本大震災における建築家による復興支援ネットワーク)の一員として、その組織運営に関わると同時に、石巻市牡鹿半島鮎川浜の地域支援にも大学院(Y-GSA)のメンバーとともに関わってきた。浜の住民の意見の聴取から始まって、土木コンサルタント主体で進む高台移転案や漁港を含む浜全体の復旧(低平地)案、災害復興公営住宅の立地・配置や出口戦略、生業としての観光と漁業の関係の再構築などに関わり、建築側からの提案を行ない、土木の論理や復興補助金と折り合いのつく計画案を探ってきた。建築家が建築の設計という「水下」ではなく、その手前の街や敷地をどう考えるかという「水上」の問題に介入しているわけである。あるいは生業としてのブルーツーリズムというソフトな部分である。そのどちらも、今まで建築家には何も期待されてこなかった分野である。土木の言語や表記法を学びながら(日本では不思議なことに全く異なる、つまり今まで言葉が通じなくても不自由がないくらい断絶していたわけである)、一方では土木側で進む案を模型やスケッチに翻訳して住民にその全貌をヴィジュアルに提示して意見のフィードバックを募るといったことを続けている(土木の計画案は、高台・道路・河川・港湾といった切り分けごとに提示されるのが普通で、統合された街の将来の姿といったヴィジュアルが欠落したままなので、普通の住民には意味がわからない情報なのだ)。



鮎川浜も陸前高田同様、2年経ってもほぼ被災時のがれきが片づけられただけの空っぽの状況にある。もしもこの浜にも「みんなの家」があったならと、ここを訪れるたびに考えたりもする。そのくらい、はっきりした成果とは遠いところにあって、少しでも建築が建つ敷地そのもののありようが変わらないかを模索していると言ってもいい。伊東が、釜石では「みんなの家」とは異なる復興支援も続けていることは知っているし共感もしている。それだけに、「建築家による、建築としての成果」である「みんなの家」をさまざまなかたちで各地に実現し続ける活動も同時に続け、実際に成果を上げていることに対しては、鮎川浜との距離の大きさ、つまり建築家はやっぱり建築を通すことでくっきりした成果に到達するのか……という納得と絶望を同時に感じてしまうのである。

この展覧会やシンポジウムを訪れた、特に学生たちが、「建築には期待されていない」という伊東の発言をあまり字義通りに受け取り過ぎないこと、また、批評性を超えた活動には陸前高田の「みんなの家」とは異なるいろいろなかたちもあることを見通してほしいと願う。
小嶋一浩 Kazuhiro Kojima
CAtパートナー
1958年
大阪府生まれ
1982年
京都大学工学部建築学科卒業
1984年
東京大学工学研究科建築学専攻修士課程
1986年
同大学博士課程在籍中にシーラカンス一級建築士事務所を共同設立
1988~91年
東京大学建築学科助手
1994年
東京理科大学助教授
1998年
シーラカンスアンドアソシエイツ(C+A)に改組
2005年
CAtに改組
2005~11年
東京理科大学教授
2011~
横浜国立大学建築都市スクールY-GSA教授
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著者=伊東豊雄、乾久美子、藤本壮介、平田晃久、畠山直哉